江戸幕府による「開国」後初の公式外交

明治維新を8年後に控えた1860年(万延元年)。江戸幕府は初代駐日総領事・ハリスの勧めもあり、正使の新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき)、副使の村垣淡路守範正(むらがきあわじのかみのりまさ)、目付の小栗豊後守忠順(おぐりぶんごのかみただまさ)をはじめとする77名の若き使節団を米国に派遣しました。

その主目的は、「日米修好通商条約」の批准書交換でした。250年もの長きにわたっ て続いた「鎖国」が解かれてから6年、彼らの渡米は日本にとってまさに初めての公式外交であり、外国の文化や文明との本格的な接触の機会となったのです。

日米修好通商条約の条文・解説

米軍艦で太平洋を横断した77名の「サムライ」たち

1860年2月6日、使節団一行は米国政府が用意した軍艦「ポーハタン号」に乗船し、江戸(品川)を出港。太平洋を横断してホノルルに立ち寄り、同年3月、サンフランシスコに到着しました。勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎等が乗船したことで知られる「咸臨丸」は、このとき、ポーハタン号の護衛として随伴していました。

サンフランシスコを出港した一行が次に向かったのは南米パナマでした。ここで彼らは、日本ではまだ目にしたこともない蒸気機関車に初めて乗車し、大西洋側のコロン(アスピンウオール)まで移動。鉄路を走る巨大な汽車は、使節達に大きな驚きを与えたといいます。そして、5月には再び蒸気船で大西洋を経てワシントンへ。使節団はここでブキャナン大統領と謁見し、条約批准書を交換しました。

現地を3週間視察した後、ボルチモア、フィラデルフィアを経由し、最終訪問地であるニューヨークに無事に到着したのは、江戸を旅立ってから約4カ月後の6月16日のことでした。ワシントンでは街を挙げての大歓迎を受け、ブロードウェイではパレードも開催されました。髷を結い、腰に刀を差した日本人の姿をひと目見ようと、数十万人もの市民が集まったそうです。

※当時の熱狂的な歓迎式典の模様は、『在ニューヨーク日本国総領事館』のHPに写真入りで紹介されています。
[在ニューヨーク日本国総領事館:初の遣米使節団]

ニューヨークの街を見聞した使節団一行は、6月末、ナイアガラ号に乗船し、帰国の途に。約4カ月半をかけて、ポルト・グランデ(現在のカーボベルデ)、アフリカのルアンダから喜望峰を回り、バタビア(現在のジャカルタ)、香港を経由して、11月10日に江戸に入港しました。