1. 渡米の目的と準備

遣米使節派遣のことは、日本側からの発案であり、その目的が、日米修好通商条約批准書の交換だけではなく、米国国情の視察による今後の幕府外交への寄与にもあった。即ち「此度取極候条約之本書は、当方より使節差出し、華盛頓府(ワシントン)に於いて為取替ては如何」という提案を日本側全権から米国総領事ハリスに提案したのは、1857年2月6日(安政4年12月23日)、江戸蕃所調所に於ける第8回条約草案商議に際して、であり、このことは条約第14条に明記された。

条約批准の時日は、条約発効の1859年7月4日(安政6年6月5日)以前が望ましいと考えられていたが、条約勅許の交渉が渋滞し、1859年3月18日(安政6年2月14日)まで相継いで行われた外国奉行とハリスとの談判の結果、安政6年2月15日付で批准書和・英・蘭語とともに三通を作成し、署判の上一通を幕府に、一通を下田領事館に留め、一通を米国国へ旅行中のハリスに代わって総領事代理を勤めていた書記官ヒュースケンに右の二通を下田奉行所に於いて手渡している。この時幕府に留めた一通は11月11日(安政6年10月17日)江戸城本丸炎上の際焼失したため、後に遣米使節の出発に際しては日付のみハリス談判による本文の月日を在し、使節名と老中名のみ当時のものに改めて再製し、使節団はこれを携行したのである。

1. 1 迎艦ポーハタン号の渡米決定

かねてからハリスは使節送迎のため、米国船を提供することを申し出ていたから、条約調印後間もなく、外国奉行水野筑後守忠徳、永井玄番頭尚志、井上信濃守清直、岩瀬肥後守忠震他は来着は1860年12月(安政5年11月)以降を希望する旨、ハリスに依頼するように幕府に上申し、幕府はこの旨書簡を以って下田領事にいたハリスに申し入れた。ハリスもこれに対して翌年3月(安政6年2月)頃迎船来着の予定につき総人数幾何かを問うたから、幕府は10月1日(8月25日)使節4名を任命し、同13日(9月7日)その名と総人数は88名なるべきことを下田奉行所よりハリスに伝達した。ハリスは使節一人にても足りようが、目付も含まれることであろう、又、一行88人は多すぎるが士官は僅少であろう、と了解したから、下田奉行はこの旨を復命し、ハリスもこれを便船に託して本国政府に伝達した。

しかし、大老井掃部頭直弼をめぐる将軍後継問題と条約勅許問題との成行きは、使節の出発を遅らせることになった。約束に従って、安政6年正月下旬に迎船ミシシッピーが到着したが、幕府は外国奉行をして数次に亘ってハリスと折衝せしめ、対朝廷の問題のため出帆は10月(9月)以降に延期したい旨を通じたから、ハリスは他の条約国へ米国に先じて使節を派遣しないことを条件とし、かつ10月出帆は気候上不便であるから、1860年2月22日に出帆すべきことを承諾した。この交渉の後、間もなく外国奉行永井尚志は軍艦奉行に左遷され、更に8月(7月)の露国人殺傷事件のため外国奉行兼神奈川奉行水野忠徳以下の左遷があって、初度任命の使節4名は資格を失い、使節派遣のことが再び頓挫を来したから、再度の使節人選の始められたのは、1859年10月5日(安政6年9月10日)、当時弁理公使に昇任し江戸麻布善福寺公使館にあったハリスから幕府に対し、迎船ポーハタン号が来る1960年2月22日(万延元年2月)もしくはそれ以前に出帆の用意ある旨、使節一行の確定人数を知りたい旨、の申し入れがあって直後のことであった。

ポーハタン号は約束よりかなり早めに1960年1月12日(安政6年12月20日)神奈川に来着した。そこで使節等は16日(12月24日)ポーハタン号上に赴いて提督、船将と面会し、出帆を2月9日(万延元年正月18日)と決定し、併せて護衛のために幕府が派遣する別艦として咸臨丸を宛てることも決定された。ポーハタン号は、米国インド艦隊に属した軍艦で、長さ250尺(75.75M)、幅45尺(13.635M)、深さ26.5尺(8.0295M)、大砲11問装備、2415トンの外車汽走フリゲート艦で、1850年米国バージニア州ノーフォークで建造され、さきにペリー艦隊の僚艦として神奈川に来航したほか、1858年に江戸湾あって日米修好通商条約調印の場所に宛てられ、1959年に清国に赴任する米国公使ワードをも乗せた外交船であった。 提督タットノール、船将ピアソン、海軍士官ジョンストン他、牧師ウッド、海兵指揮官テイラー、機関長ショックを始め、総員312人が乗り組んでいた。日本一行のためには、特に船室及び調理室が改造された。ポーハタン号は12月31日(12月8日)香港を立って1860年1月12日(12月20日)横浜に来着、ついで1月29日(正月7日)品川沖に来泊した。

1. 2 使節一行の構成

1859年10月8日(安政6年9月13日)、幕府は外国奉行神奈川奉行兼帯新見豊前守正興、勘定奉行外国奉行神奈川奉行箱館奉行兼帯村垣淡路守範正、目付小栗豊後守忠順に米国出張を命じ、新見を正使、村垣を副使、小栗を立合の職務に任ずべきことを指令し、翌日ハリスに対し、出帆は当春取極の通り1860年2月22日とし、使節3名の使命のほか諸役人、医師、通詞ども15名、僕従53名の人数を通知した。この人選には、ハリスはなお不満を表明したが、幕府はすでに、それ以前に勘定方、外国方その他主なる役人及び供連の人数も決定した。役人中なお若干の変更もあり、軍艦方水夫の雇入れは廃案となって諸国より広く人材を募ったが、随員中には出発の数日前に参加し得たものさえあった。迎艦ポーハタン号に乗船してサンフランシスコに向かった一行は、以下の通りであった。

正使(First Ambassador)は、新見豊前守正興であった。通称房次郎。系図によれば先祖は備中新見(にいみ)家であるが、 徳川家康に仕えてその御意により新見(しんみ)と称した旗本で、正興は三浦美作守義韶の二男、新見伊賀守正路の実子が幼年のためその養子となり、小性、奥小性、小性番頭を歴任して、安政6年7月8日外国奉行となり、同年8月28日神奈川奉行を兼帯、高二千石、領地は近江蒲生郡と武蔵入間郡とにあった。屋敷は、嘉永6年10月以降江戸飯田町の前川路邸に移っており、当時37歳であった。その従者には、家従の三崎司義路(用人、三浦善三郎改、35歳)、新井貢貞一31歳、佐山八郎高貞24歳、安田善一郎為士37歳、堀内周吾朝治17歳と、諸国より随従の荒木藪右衛門義勝(熊本藩士)25歳、玉蟲左太夫(奥州仙台藩士)37歳、日田仙蔵雅忠(東海道程ヶ谷信濃住人)44歳があった。

副使(Second Ambassador)は村垣淡路守範正で、旗本村垣範行の二男、江戸築地生まれ、通称与三郎、天守台下庭番、御台様御用人支配、細工頭、表台所頭を歴任、安政元年正月勘定吟味役となり、海防事務、外国応接の事に当たり、安政3年7月28日箱館奉行を兼ね、 同5年10月9日外国奉行を兼ね、6年4月8日御勝手勘定奉行、6月5日神奈川奉行をそれぞれ兼帯したが、同年10月28日、渡米を前に勘定奉行の兼任を解かれた。蔵前200俵取、屋敷は嘉永2年6月以降江戸築地中通の前川邸に当たり、年齢48歳であった。

従者には、家従の高橋森之助(用人)43歳、野々村市之進忠寛43歳、西村金五郎長忠35歳、吉川金次郎謹信16歳と諸国から随従の綾部新五郎幸佐(肥前連池藩士)29歳、福村磯吉宗明(三河吉田藩士、本名福谷啓吉、佐賀藩雇元長崎海軍伝習生)42歳、松山吉次郎好徳(上総の生まれ、江戸住)59歳、谷文一郎文一(画師)35歳、鈴木岩次郎金令23歳があった。

立合いすなわち監察(Chief Censor, or Advisor to the Ambassador)は、目付小栗豊後守忠順であった。通称又一、 新潟奉行小栗又一忠高の子、旗本の子として江戸駿河台の邸に生まれ、幼くして学問出精の聞こえあり、書院番組、小性組、進物番出役を歴任、安政4年正月家督相続の後、同年9月12日定員外目付役となり、豊後守と称したが、その治績は、帰朝後外国奉行、勘定奉行、 軍艦奉行を歴任した小栗上野介しての方が著名である。石高二千五百石、上野権田村に領地があった。32歳。従者には、家従の吉田好三信成(用人)35歳、塚本真彦勉29歳、江幡祐造尚賢(常陸出身)29歳、三好権三義路24歳、福島恵三義言19歳、三村廣次郎秀清17歳と、諸国から随従の木村鉄太敬直(熊本藩士)31歳、佐藤藤七信有(上州権田村名主)54歳、木村浅藏正義(備前御野郡木村)25歳がいた。

三使節のもとに、外国方として外国奉行支配組1名、同調役1名、同定役2名、通弁2名、勘定方として勘定組頭1名、普請役2名、目付方として徒目付2名、小人目付2名、医師として本道2名、外科1名が役人として所属し、各役人は家従及び雇の随員5乃至1名を従え、他に御賄方6名が配備された。即ち、外国奉行支配組頭及び調役(Officers of the first rank belonging to the ambassadors)は、成瀬善四郎正典39歳及び塚原五郎昌義36歳で、成瀬従者には、北条源臧(長門萩藩士)32歳、山田馬次郎青樹(土佐藩士)30歳、平野新藏信成(下総佐原在出身)32歳があり、塚原従者には、島東西八芳義(本名は本島喜八郎、肥前佐賀藩士、元長崎海軍伝習生)30歳、谷村左右助勝武(上州館林藩士)29歳があった。

外国奉行支配定役(Under officers of the Ambassadors)は吉田佐五左衛門久道40歳、松本三之丞春房30歳の両人で、吉田従者には岸珍平重満(紀伊出身)31歳が、松本従者には大橋玄之助玄(武州熊谷在玉井村出身)31歳がいた。

定役格通詞(Officer and Chief interpreter)は長崎出身箱館奉行支配通弁名村五八郎元度34歳で、長崎和蘭陀通詞立石得十郎長久32歳が神奈川運上所で英語通弁見習中のその甥(養子)立石斧次郎教之(米田為八、後長野桂次郎)17歳を無給通詞見習いとして引率し、この3人の下僕として名村従者片山友吉武富(摂津有馬郡下村)27歳が随従した。

勘定組頭(Treasurer, or Vice Governor)は森田岡太郎清行49歳で、その従者に、廣瀬格蔵包章(甲斐八代郡市川)50歳、石川鑑吉克己(江戸飯田町)35歳、狩野庄藏定安(奥州盛岡藩士)34歳、三浦東造道賢(出羽由利郡矢島村)34歳、五味安郎右衛門張元(甲斐巨摩郡藤田村)61歳がいた。

勘定組頭支配普請役(Under Officers of Treasurer)は益頭駿次郎尚俊32歳と辻芳五郎信明30歳であり、益頭従者には佐野貞輔鼎(駿河生まれ、加賀藩士)30歳が、辻従者には中村新九郎信仲(武州行田)27歳がいた。

徒目付(Officers of the first rank belonging to the Censor)は日高圭三郎為善24歳・刑部鐡太郎政好37歳の両人で、日高従者には、伊藤久三郎一貫(江戸本所)23歳、庵原熊藏孝(相模津久井郡県村)28歳が、刑部従者には、佐藤栄藏政行(江戸)32歳、小池専次郎光義(本名小出仙之助、肥前佐賀藩士、元長崎海軍伝習生)29歳があった。

小人目付(Under Officers of the Censor)は栗島彦八郎重全49歳及び塩澤次郎某34歳で、栗島従者は坂本泰吉郎保吉(武州八王子千人町)20歳、塩澤従者は木村博之助正盛(江戸)49歳であった。

医師(Doctors)は全て漢方医で、本道として寄合医師宮崎立元正義34歳及び御雇医師川崎道民勤(備前佐賀藩医)30歳があり、宮崎は斎藤吾一郎忠實30歳を、川崎は島内栄之助包孝(肥前佐賀藩士、元長崎海軍伝習生)28歳を従者として従え、宮崎と同格の御番外科村山伯元淳32歳があり、大橋金藏隆道(上州熊谷出身)50歳を従者として従えた。

御賄方即ち料理人には、外国方小買物御用達伊勢屋平作の手代伊勢屋山本喜三郎(近江)49歳と加藤素毛雅英(飛騨益田郡下原村大庄屋次男)32歳、佐藤恒藏秀長(豊後杵築藩士)37歳、飯野文藏(江戸)35歳との4名が当たり、下男として武蔵久良岐郡金沢村嶋村の船乗半次郎55歳と同じく武蔵金沢出身江戸在住の船乗鐡五郎22歳とが同行した。

以上の人数は、使節3名、役人17名、従者51名、賄方6名、合計77人となった。尚、賄方の下男の半次郎は海上で宿病のsyphilisが再発したため、別船でサンフランシスコから帰国したので、首都ワシントンを訪問したのは76名であった。

1. 3 出帆までの準備

使節一行の人選、任命ならびにこれに伴う叙爵、昇格の進捗と併行して、諸役の準備が幕府内部で進められた。第一は、渡航上の諸制規の確定であった。1859年10月(安政6年9月)より年末にかけて、米国送迎船の指揮者に対する待遇、日の丸船印の寸法、供連用人、侍、足軽の服装、手当の準則、差遣中の賄向の責任の所在、使節差遣一般に関する心得方、大統領謁見の手続きなどが、日を逐って立案され、稟議され、制定された。

大統領への国書伝達、謁見については、まず外国事務職と交渉の上、当方より申し入れ、米国の国風に従いつつ、 しかも我国威を保持するよう努めるべきことが、評議を経て決定されている。

第二は、米国大統領、政治官への贈物の調達である。1859年11月15日(安政6年10月21日)使節より原案を上申、一か月に亘る稟議の結果、音楽の心得ある者随行せずとの理由で「楽器は相止メ、右代り漆器類」又「大工道具も相止メ、右代り大和錦之積」と規定され、12月19日(11月26日)最終案として「太刀二振、馬具一揃、掛物10幅、錦戸垂五張、屏風五隻、漆器類、大和錦で「楽器は相止メ、右代り漆器類」又「大工道具も相止メ、右代り大和錦之積」と規定され、12月19日(11月26日)最終案として「太刀二振、馬具一揃、掛物10幅、錦戸垂五張、屏風五隻、漆器類、大和錦10巻の物品書と細工頭の案紙とが使節より上申され、調達が始められた。他に政事官への贈物として副使村垣範正が準備した鞍も買い上げた。 これらの公式贈品の購買及び製造の総費用は金246両と銀25貫であった。

第三は、渡米準備金の調達である。1859年12月29日(安政6年12月6日)使節は、旅行中の賄入用として日積概算高二万両とし、貨幣相場の差と物価高とを見越して金六万両を持参したいと上申し、三週間を経て、内三万両を壱分銀、三万両を洋銀にて交付する旨許可されたが、ポーハタン号の船将と協議の結果 スペイン貨一ドル及び半ドルにて持参するほうがよいとの忠告を得たのでこの旨を上申、出帆までに、江戸御金蔵、神奈川奉行所及び神奈川三井八郎右衛門預金蔵納洋銀の三箇所より洋銀が準備された。サンフランシスコ滞在中、これらのスペイン貨幣は米国のドル金貨と交換された。当時メキシコドル100枚に対し米ドル99枚の比価であったから、米国の金貨にして、77,329ドル89セントの価格を有していたこととなる。

2. 旅行の概況

2. 1 太平洋を渡る

往路だけでも1万2千海里、名実共に万里の波濤を越えて外交使節団を構成した77名、のち76名の一行にとっては、この旅行がひとり国運を賭して開国に伴う国際的使命を帯びていたためだけでなく、言語も充分に通じない海外への始めての旅行であったから、出発に際しては、この行に参加することの痛快さと同時に不安が漲っていた。副使村垣は 「君命をはづかしむれば、神州の恥辱と成らんことごとおもへば、むねくるしき事かぎりなし」と記している。

1860年2月7日(万延元年正月16日)、使節は江戸城西の丸で井伊大老より黒印状、下地状を交付され、米国大統領宛ての国書と条約批准書を授与され、併せて暇乞の御礼を行った。その翌々日の2月9日(正月18日)、一行は江戸築地の江戸幕府の軍艦操練所に集合、ここで見送り人と別れて端舟でポーハタン号に乗船した。使節一行の乗船が終わると、直ちにポーハタン号は横浜に向かい、ここに4晩停泊して 2月13日(正月22日)サンフランシスコに向けて出帆した。

太平洋は、意外に荒れた。次第に暴風雨となって、2月18日(正月27日)には船の傾斜も30度を超え、端舟一隻と日本人の糧抹若干を流出し、提督タットノールも、永年航海の経験にも未曾有の荒天候であったと語っており、航海に馴れない日本人は、加藤素毛の言葉によれば 「一人も用に立つものもなく」船室に閉籠り、天候回復を待つのみであった。2月23日(2月2日)夕刻6時頃、ポーハタン号は経度180度を通過した。米国測量官は、今日は2月23日であるが、日付変更線を通過したので、今日を2月22日にしておけば、合衆国到着の際現地の日付と適合する理を説明したが、「日本人は、従前の日数を逐ひ、改めずして用ふ」こととした。通詞名村五八郎を除けば、残存する使節一行の日記がすべて、帰朝下船の日に始めて一日の差を確認しているのは、このためである。

当初は、サンフランシスコへ直行する予定であったが、暴風雨のため多く消費した石炭を補給する目的で、ポーハタン号は西緯162度附近で進路をサンドウイッチ諸島(現在のハワイ諸島)に取ることとなった。3月5日(わが2月27日)に至る2週間に亘るホノルル滞在は、図らずしも使節一行にとって、来るべき米国国旅行のためのオリエンテーションの役割を担った。使節は始め和親の国でないのを理由に上陸を遠慮したが、提督の勧めで一行は上陸してフレンチ・ホテルに投宿し、米国公使ボーデンの斡旋で国王カメハメハ四世及び王妃エマへの謁見(3月9日金曜日)と市中見物の機会を与えられた。ホテル滞在は五泊で、その後はポーハタン号に止宿した。

3月29日木曜日(わが3月9日) サンフランシスコに到着した使節一行は、先にメーア島海軍造船所に到着していた咸臨丸搭乗一行と再会、ポーハタン号の修理と補給を待って、ジャクソン街のインターナショナル・ホテルに投宿した。(但しポーハタン号宿直員を除く)3月31日、提督タットノールは海軍長官トウシ―宛到着を報告した。使節一行はこの地で市役所における歓迎会(4月2日)に臨み、メーア島造船所やサンフランシスコ市中の見学を行った。滞在9泊ののち、4月7日(わが3月18日)使節一行は咸臨丸一行を残してポーハタン号でサンフランシスコを出帆、南下して4月24日(わが閏3月5日)旧イスパニア領ニューグラナダのパナマに入港、即日、米国人の近年敷設した鉄道を利用して地峡を横断し、大西洋岸アスピンウオール(現在のコロン)に至り、ここで10か月前より待機していた米国軍艦ロアノーク号に乗移った。

ロアノーク号は1855年英国ハンプシア州ポーツマス軍港のゴスポート造船所に於いて建造された気走フリゲート艦で、長さ317尺(96.051M)、幅53尺(16.059M)、深さ水下25尺(7.575M)、大砲52門備、3400トン。提督マックルーニーはペリー艦隊所属当時のポーハタン号船将で、 船将はガードナー、海兵指揮官はワトソンであった。ロアノーク号は4月26日(我が閏3月7日)アスピンウオールを出帆、北上して、5月9日(我が閏3月20日)ニューヨーク港外ニュージャージー州サンディ・フックに到着したが、国務省はハリスの助言によりニューヨーク訪問を先にすべき日程を変更して先ず首都ワシントンにて迎接せんとの海軍省訓令を受け、5月11日この地を発して翌日ヴァージニア州ノーフォーク対岸のハムトンローズに入港した。13日一行は首都よりの迎船川蒸気フィラデルフィア号に移乗しチェッサピーク湾及びポトマック河を遡航し、翌日正午ワシントン海軍造船所に到着、ここで首都ワシントン創始以来の大歓迎のもとに上陸して、ペンシルバニア街と第13番街の交差点のウイラーズ・ホテルに投宿した。

使節一行の滞在中の世話役はポーハタン号指揮官テイラー大佐の後を受けて国務長官ルイス・カスの姪レッドヤード、デュポン大佐、リー中佐、ポーター大尉、書記マクドナルド博士及びオランダ語通訳ポートマンであった。

2. 2 ワシントンに於ける日本使節

首都ワシントンに於ける公式行事は、大統領への謁見と、大統領主催の歓迎会と、日米修好通商条約批准書交換と、大統領招待の晩餐会とであった。

謁見は、幕命に従い、かねて国務長官ルイス・カスと協議の上、5月17日(わが閏3月28日)に行われた。新見正興は狩衣に鞘巻太刀、村垣範正は狩衣に毛抜形太刀、小栗忠順は狩衣に鞘巻太刀、各々鳥帽子は萌黄の組掛を用い、森田、成瀬、は布衣、塚原、日高、刑部は素襖、名村は麻の上下という服装で、ホテルからホワイトハウスまでは、新見はデユポント、村垣にはリー、小栗にはレッドヤードが付添って四頭立ての馬車に分乗し、国書入りの長持に赤い革覆を掛けたものを枠に入れて担がせ、群衆の居並ぶ道路を行進した。文武の官人、老若の婦人の参列する東の間(East Room)の中央に立つ大統領ブカナンの前に進み、大統領への謁見と親書奉呈は厳かに無事行われた。謁見の翌日、献上品をホテルに陳列して目録を提出、翌々日は官邸南庭に大統領主催大歓迎会が開催され、大統領の姪のFirst Ladyであるハリエット・レイン嬢も使節の接待に出て衆目をひいた。

「ホワイトハウスで渡された徳川家茂からブキャナン大統領宛ての国書」(PDF:210KB)
及び「国書の解説」(PDF:76KB)

「使節が持参した現存する贈り物」(PDF:185KB)

条約批准書交換は、5月22日(わが4月3日)ホワイトハウスの東に隣る国務省においていとも簡単に行われた。「レウヰス・カスの局に至れば、外に高官の人両人、書記等出て、更に何の礼もなく、机の上に御条約を取かわしたり、(中略)互いに改めて取かわせたる証書、此方は和文へ正興、おのれ、忠順名判して、カスは英文へ名判し、又蘭文を添えて取かわし、かくて旅舎に帰る」と村垣が書き残している。

「日米修好通商条約批准書」(PDF:810KB)

5月25日(わが4月6日)には、使節幹部を招いた大統領主催の晩餐会がホワイトハウスで開かれ、新見にはレイン、村垣、小栗には閣僚夫人がという風に、婦人たちが一人ずつ付添って参列した。使節一行が、その位に応じて金、銀、銅の記念メダルを贈られたのは、6月5日(わが4月17日)使節が大統領に訣別し、国務省にて返書を受領した日のことで、金メダルはホワイトハウスで、銀、銅メダルは国務省で手渡しされた。公式行事のほかに、議事堂、造船所、博物館・天文台などの見学、医師会委員との対談、外国使臣館への訪問、記念撮影などの多くの出来事が、いうまでもない。

一行は、6月8日(わが4月20日)ワシントンを出発し、ボルティモアで一泊、フィラデルフィアで一週間滞在して造幣局に於ける邦貨分析の結果を待ってここを出立、6月16日(わが4月28日)ニューヨークに到着、ブロードウエイのメトロポリタン・ホテルに投宿し、二週間滞在して見聞を広めた。6月26日ホテルで行われた市主催歓迎大舞踏会は7500人の参加者があり、その切符はプレミアム付で取引される程の前景気であり、しかも後日ニューヨーク市歓迎委員会に対する請求額は予算をはるかに上回り減額処分を受ける程であった。サンフランシスコ、ボルティモア、ニューヨーク各市は歓迎委員を任命し、歓迎費を計上して、日本使節の歓迎につとめた。この間、滞在費は一切米国側の負担という保証はあったから、使節が提供しようとした祝酒料2万ドルは米国海軍迎接委員から謝絶を受けたが、使節はひとまずペリーの女婿ベルモントにこれを預け、礼物は帰国の上発送することとして、6月29日(わが5月12日)送還船ナイアガラ号に乗船し、翌日ニューヨーク港を出帆した。

2. 3 大西洋・インド洋の旅

折からニューヨーク港に到着していた英国新造の世界最大のグレイト・イースタン号を絵入新聞の挿絵と見比べて望見しながら 米国を後にして行く使節76人を乗せて大西洋をアフリカ沿岸に向けて出発したナイアガラ号「は、米国海軍の汽走フリゲート艦で、長さ375尺(113.625M)、幅53尺(16.059M)、大砲12門備、5000トン、1200馬力、海将マッキーン、士官ブラウン、ゲスト、ド・クラフト、ポッター等水兵558人に乗合の通訳、新聞記者らを加えて600人の米国人が乗っていた。旅行中、奉行らの海将たちとの会食や、滞在中の特別招待以外の時は、使節一行は自炊して和食を常としたが、ナイアガラ号では多量の味噌・醤油の積を嫌われたので、出帆10日目の朝食から米人料理人による洋食が供せられた。

ナイアガラ号は途中ポルトガル領ヴェルデ諸島のポルト・グランデ港、ポルトガル領コンゴのロアンダ港に石炭、清水の補給のため寄港した。 喜望峰南方洋上を東航し、一路ジャワ島に向かって直航した。9月30日(わが8月16日)にはバタビア港に到着、日蘭貿易ゆかりの地とあってバタビア総督府を訪問した後オンリュスト島の造船所にて薪水補給を行い、10月22日(わが9月9日)英領香港に停泊して8泊した。香港出帆の際には、米国帰りの日本漂民亀五郎を同乗させた。

11月9日(わが9月27日)ナイアガラ号は横浜沖から江戸湾に進み、 品川沖に碇泊、使節一行は翌朝迎船を以って築地軍艦操練所へ到着、昼食を認めたのち解散した。使節は上陸の翌日、11月11日(わが9月29日)江戸城西丸に登城して将軍に復命し、1日置いて麻布善福寺公使館にハリスを訪問して挨拶を行い、さらに、12月2日(わが10月20日)将軍御座所に赴いて海外事情を言上、被下物を賜って、ここにその使命を全うした。

              出典元:「万延元年遣米使節史料集成」第7巻 第二章 A.正使一行の派遣