新見豊前守正興(当時40歳)- プロファイル

新見豊前守正興
新見豊前守正興

新見正興は先手鉄砲頭三浦美作守の二男として、文政5年(1822年)に生まれた。通称を房次郎といい、叙任して豊前守と称し、のち伊勢守と改めた。文政12年(1829年)6月、新見伊賀守正路の養子となり、その二女(母は平賀信濃守貞愛の女)を娶った。これは実父が正路の弟にあたる由縁によるもので正路の実子がまだ幼年であったから、伯父の養子となったのである。当時正路は大坂町奉行の要職にあり、のち西丸小姓番頭格御用取次見習・側衆などを歴任、嘉永元年(1848年)58歳をもって卒している。

経歴

天保10年(1839年) 伯父の養子となった正興は正月はじめて幕府に出仕して小姓となり、ついで中奥小姓に転じる。
嘉永元年(1848年)10月、養父正路のあとを承けて家督を相続する。
安政元年(1854年)3月3日、小姓組番頭に進み、8月、小普請組支配となる。
嘉永元年(1848年)10月、養父正路のあとを承けて家督を相続する。
安政6年(1859年)7月、外国奉行に抜擢される。外国奉行はその前年に新設された役職で、場所高2千石、遠国奉行の上座に班する、すこぶる格式高い役職で、新設と同時に水野忠徳・永井尚志・岩瀬忠震・井上清直、やや遅れて村垣範正といったような、当時外国通をもって知られていた俊傑がこの要職を占めていた。
8月には、神奈川奉行兼帯を命ぜられる。そして、9月13日に米国差遣を仰渡され、遣米使節正使に任命された。
万延元年(1860年)9月29日、帰国後翌日江戸城に登城して老中に復命した。10月、正興は神奈川奉行兼帯を免ぜられ、外国奉行専任となる。
文久2年(1862年)側衆に転じ、伊勢守を称したが、元治元年(1864年)9月役儀を免ぜられた。
慶応2年(1866年)12月、正興は病気により隠居し、家督を養父正路の三男に譲り、隠居料5百俵を下された。
明治元年(1868年)3月、幕府が瓦解するや上総国人周准群人見村へ帰農する。
明治2年(1869年)4月、病気療養のため東京に出府し、10月18日、病のため48歳で逝去した。

(万延元年遣米使節史料集成第二巻より)