小栗豊後守忠順(当時32歳)- プロファイル

小栗豊後守忠順(東善寺前住職村上照賢画)
小栗豊後守忠順
(東善寺前住職村上照賢画)

小栗又一忠順は文政10年(1827年)6月2日、2,500石の旗本小栗忠高・邦子の長男として、神田駿河台の小栗邸に生まれで初名は剛太郎。天保14年(1843年)3月、父忠高が御使番で仕えているときに、17歳の忠順は将軍家慶に初御目見した。

経歴

弘化4年(1847年)4月、21歳の忠順は武芸に励んでいることから御番入りを果たした。
嘉永元年(1848年)10月、山里丸御庭での大的上覧で皆中の成績を上げる。
嘉永2年(1849年)3月、下総の小金原の鹿狩に追駆騎馬で随従。
嘉永6年(1853年)1月、ペリーの再来日で、浜御殿の警備につく。
安政2年(1855年)7月28日、父忠高が死去。10月22日、跡目相続が認められる。
安政4年(1857年)1月11日、御使番となる。12月、布衣となる。
安政6年(1859年)9月12日、御目付に任じられ、翌13日、江戸城芙蓉の間において、井伊掃部頭以下老中が列席する場で、間部下総守から、米国との日米修好通商条約批准書交換の遣米使節として派遣されることを申し渡される。11月21日、アメリカへ派遣されるにつき、諸大夫の格となることを井伊掃部頭以下老中列座で申し渡される。豊後守を名乗る。
慶応4年(1868年)4月6日、小栗上野介忠順は土着しようとしていた知行地上州権田村の近く、 烏川の河原で西軍により問答無用とばかりに斬首された。

その他

小栗家の石高は五代政信以来2,500石であったが、忠順の遣米使節の帰国後、褒章として200石加増され、2,700石で明治維新を迎えている。小栗忠順は遣米使節として渡米の途中パナマで鉄道に乗車した際に、具体的に鉄道建設の方法をアメリカ側の応接委員に尋ねている。これが帰国後、大阪の有力商人に出資を求めた貿易会社「兵庫商社」設立に生かされた。 さらに使節団らが宿泊したワシントンのウイラードホテルやメトロポリタンホテルが、小栗による築地ホテル建設の構想に繋がった。ワシントンの海軍造船所の見学は後の横須賀造船所構想として結実した。

(「小栗忠順のすべて」村上泰賢著 新人物往来社 より)