木村鉄太敬直(当時31歳)- プロファイル

 木村鉄太肖像写真(個人蔵)
木村鉄太肖像写真(個人蔵)

木村鉄太は文政11年(1828年)、肥後国高瀬(現・熊本県玉名市)生まれ。父は木村甚左衛門。のち、同族の木村才記の養子になった(才記の実子・木村弦雄=熊本中学校長、済々黌黌長など歴任=は、10歳年下の義弟にあたる)。

32歳の万延元年(1860年)に自ら進んで小栗豊後守の従者通弁役として参加し、旅行中見聞にふれる異国の事物を、自由な眼で細大もらさず日記に書きとめた。 遣米使節従者として世界一周して帰国したが、2年後の文久2年(1862年)、34歳で早世した。結婚しなかったので、妻子はなかった。

木村家は高瀬港で廻船問屋「木村屋」を営み、持ち船「吉祥丸・きっしょうまる」で藩米を大坂などに運んでいた豪商。一方、蓄財した金品を代々、藩に献上して名字帯刀を許された金納郷士(200石の寸志知行取)でもあった。酒商売や御赦免開きの田畑を持っていたことを示す資料も残っている。

鉄太(諱・いみなは敬直・よしなお)はその木村家の子として何不自由なく育ち、小さいころから高瀬で学問に励んだ。そして嘉永6年(1853年)、アメリカ・ペリー提督率いる黒船が浦賀に来た年の秋、地元の私塾の師匠・平山玄民先生が医学遊学で江戸の上るのに同道して江戸に向かった。

江戸では昌平坂学問所で安積艮斎先生の講義を中心に漢学、朱子学を学び、手塚律蔵先生からは蘭学(洋学)を学んで、自らの出番が来るのを待った。それは江戸に出て6年後に、遣米使節団の従者として世界一周に参加する形で実現した。

「万延元年遣米使節 航米記(朝日出版 高野和人著)」より