森田岡太郎清行(当時49歳)- プロファイル

森田岡太郎(「1860年 ニューヨーク」Tom Burnett Collection より)
森田岡太郎
(「1860年 ニューヨーク」Tom Burnett Collection より)

森田岡太郎は、文化九年(1812年)2月13日に田安家の臣大城氏に生まれ、7歳の時に幕臣森田金助の養子となる。名は清行、字は士直、桂園または黄雪と号し、幕末の文人間に交わりがあった。通称は岡太郎。

経歴

文政元年(1818年)8月、養父金助の跡目相続が許され小普請組に所属した。
天保9年(1838年)正月、学問試業を受け、3月、学問出精につき賞され、6月14日、学問所出役を命ぜられた。この学問所勤番という役は、燃火間上下役、小普請、無役方などにより、文学の心得あるものが任命された。林大学頭の支配に属し、神田昌平坂の学問所の事務を掌るもので、50俵3人扶持を給せられた。岡太郎がこの役を命ぜられたことから、文学に相当長じていたことを知りうる。
天保12年(1842年)10月、徒目付を命じられた。これは役高100俵五人扶持高で、下級幕史の最高の活躍場所といわれ、この役での活躍如何により、立身することが多かったのでこの役を希望する者は非常に多かった。
天保14年(1843年)5月27日に、小普請方改役勤務となり、扶持十人扶持を給せられた。7月には小普請方改役となり、役高百俵十人扶持を受けた。
嘉永2年(1845年)正月26日には小普請方に任ぜられ、役高百俵15人扶持を給せれられる。
嘉永4年(1851年)4月5日、岡太郎は代官に任命されると共に、御目見え以上と達せられた。代官の役高は百五十俵高で、下級幕史としての彼の有能さが認められた。
安政6年(1859年)9月13日、岡太郎は上司御勘定奉行格堀越大蔵小輔藤助より、老中脇坂中務大輔安宅の命令として、「亜米利加国江本条約為御取替、外国奉行新見豊前守、村垣淡路守、御目付小栗豊後守相越候ニ付、御入用其外為立会可罷越」と命ぜられた。岡太郎は無事大役を果たし、帰朝後はその後の活躍を期待された。
文久元年(1861年)5月22日、病気のため死亡した。死亡した時は50歳であった。墓は江戸市ヶ谷長泰寺。岡太郎が渡米中に記したものに「亜行日記」、「無題手控」、「亜米利加航海出入簿」等があり、帰国後には旅行中に作った詩百種を撰んで「航米雑詩」を出版した。

(万延元年遣米使節史料集成第一巻 より)