益頭駿次郎尚俊(当時32歳)- プロファイル

益頭駿次郎尚俊(東京大学史料編さん所蔵)
益頭駿次郎尚俊
(東京大学史料編さん所蔵)

益頭駿次郎尚俊(ましずじゅんじろうひさとし)は、後に江戸の惣録検校となった益頭尚房の次男として、1820年(文政3年)<文政6年という説もある>に江戸で生まれる。

益頭尚房は、1798年(寛政10年)<寛政十三年ともいう>焼津の大村新田の早川武右衛門の長男として生まれた。尚房は幼い頃に失明し、若くして江戸に出て勉学に励んだ。文政十一年には検校になり、姓を益頭と改めた。駿次郎尚俊は、1844年(弘化元年)に普請役に用いられ、万延元年には、遣米使節に選ばれ渡米する。その際の紀行文が『亜行航海日記』である。 また、この時、記念メダルを授与されている。1860年(万延元年)の遣米使節は新見豊前守正興を正使として、日米修好通商条約批准書の交換のため渡米した。

文久元年、幕府はヨーロッパに使節を派遣することとなり、駿次郎は再び使節団に選ばれる。この時の紀行文が『欧行記』である。正使に竹内下野守保徳、副使に松平石見守康直など36名が、1862年1月22日(文久元年12月23日)、イギリス海軍のオーディン号で、品川を出港した。エジプトのカイロを経由してフランスを訪問した使節団は、イギリス、オランダ、プロシア(ドイツ)、ロシア(ソ連)、ポルトガルを次々に歴訪した。今回の使節団の主な任務は各国と締結した修好通商条約に決められていた江戸、大阪、兵庫、新潟の開市開港の延期を交渉することであったが、結果はあまりはかばかしくなかった。一行は1863年1月30日(文久2年12月11日)に約1年の長旅を終え、品川に帰着した。駿次郎はその後、横須賀製鉄所調役などを任じたが、明治維新により幕府が崩壊したため、1868年(明治元年)、郷里の大村新田に移り住んだ。後、再び東京に移り、1900年(明治33年)没した。墓は焼津の用心院にある。今その子孫は浜松に住む。

その他

駿次郎は非常に算数に秀でた頭脳を有して、そろばん2つを使いこなし、難解な高等数学さえもたちどころに算定したと言われています。普請役として抱えられた理由も、数字に強いところからかも知れません。

公儀の御用を二度果した駿次郎は、アメリカ政府から銀メダル、オランダ政府から日蘭修好記念メダルが与えられて、今も浜松のご子孫の家に大事に所蔵されています。特にアメリカの銀メダルは、時の大統領「ブカナン」から与えられ、 この「メダル」には、これを持って再び亜米利加を訪れるものがあれば米国は喜んで礼を厚うして遇する、との書付まで添えられていたそうです。

駿次郎が眠る市内大村新田にある用心院(曹洞宗)
駿次郎が眠る市内大村新田にある用心院(曹洞宗)
境内に立てられている駿次郎業績をたたえる案内
境内に立てられている駿次郎業績をたたえる案内
境内の奥にある益頭家のお墓
境内の奥にある益頭家のお墓

「益頭駿次郎は焼津の歴史上最初の渡欧人物です。村の誇りです。」

(焼津市歴史民俗資料館 第7回特別展 市制四十周年記念事業『維新前夜・益頭駿次郎と村松文三』展(平成3年7月20日~8月28日)の資料からの抜粋)