塚原重五郎昌義(当時36歳)- プロファイル

塚原但馬守昌義(右より2番目)、森田岡太郎清行(中央)、成瀬善四郎正典(左より2番目)(「1860年 ニューヨークにて」Tom Burnett Collection より)
塚原但馬守昌義(右より2番目)、森田岡太郎清行(中央)、成瀬善四郎正典(左より2番目)
(「1860年 ニューヨークにて」Tom Burnett Collection より)

塚原但馬守昌義(つかはら じゅうごろう まさよし)(通称:重五郎)
幕末の江戸幕府旗本。文政8年(1825年)塚原忠次郎昌常の四男として生まれる。塚原家は元々甲斐の国、塚原郷の出で塚原六右衛門昌吉が武田信玄に仕えていたが、武田信玄没後、天正10年に甲斐に入国した徳川家康公の家臣となり、上田城攻めや大阪両陣にも参戦し以后代々徳川家に仕える事となる。

経歴

嘉永6年(1853年)学問吟味に合格。
安政3年(1856年)外国貿易取調掛に抜擢される。
安政6年(1859年)外国奉行支配調役に昇進。
万延元年(1860年)日米修好通商条約批准書交換に赴く。「万延元年遣米使節団」の一員として渡米する。
文久元年(1861年)外国奉行支配組頭、徒頭。
文久2年(1862年)目付、講武所頭取、歩兵頭格大砲組之頭を歴任。
文久3年(1863年)遣欧使節の目付に任命されるが赴かなかった。
元治元年(1864年)目付兼英国駐箚公使に任命されたが赴かなかった。諸太夫となる。
元治2年(1865年)大目付就任。
慶応2年(1866年)外国奉行に就任、勘定奉行を兼務。
慶応3年(1867年)外国総奉行に就任、若年寄並を兼務。小栗忠順などと兵庫港開港に備え、商社を設立して富国強兵に努めた。
慶応4年(1868年)鳥羽伏見の戦いでは副総督として幕府軍を指揮した。
明治元年(1868年)2月9日、徳川慶喜公より免職・登営禁止の命を受ける。
明治元年(1868年)4月、米国サンフランシスコに亡命する。
明治3年(1870年)12月、帰国する。
明治4年(1871年)4月、徳川家静岡藩の東京藩邸に自首する。
明治5年(1872年)2月、特命による赦免が申し渡される。
明治5年(1872年)10月、氏名を武田昌次(平民)に改めて政府に出仕する。
明治6年(1873年)5月、博覧会事務官として英国に赴く。
明治8年(1875年)5月、大久保卿の命を受け産業関係調査のため清国へ出張。
明治11年(1878年)内務省勧農局より小笠原島に派遣される。小笠原島の殖産事業開発(西洋密蜂、珈琲豆栽培、牧畜等々)
明治15年(1882年)11月、小笠原島で退官する。
明治21年(1888年)9月、東京で死亡する。

(出自(万延元年遣米使節子孫の会 塚原辰二氏))