日高圭三郎為善(当時24歳)- プロファイル

日高圭三郎為善は天保5年(1834年)10月20日、幕臣小田切清十郎の次男として江戸に生まれた。嘉永元年(1848年)11月小普請組松平美作守日高弥一郎の養子となり、同年16日の養父の死に伴い翌月27日養家を相続し、養父同様松平美作守組となった。嘉永6年(1853年)には同組金手伝勤仕並となっているが、時に20歳であり、恐らく才気渙発の青年であったであろう。安政2年(1855年)12月には抜擢されて徒目付となった。この頃は小普請組奥田主馬組であった。

安政5年に、遣米使節並に随員等の人選が進められ、はじめ徒目付二人は清水崎太郎・刑部鉄太郎と予定されていたが、しかし翌年10月清水崎太郎が長崎に出張中であったため、日高圭三郎が代って派遣されることとなった。11月、日高・刑部の二人は勘定格を命ぜられ、翌年万年元年(1860年)正月使節に随従して渡米し、無事任務を果たして帰国した。「米行日誌」を残している。

文久元年(1861年)、幕府は、江戸・大阪・兵庫・新潟の両都両港開市開港延期談判使節を欧州に派遣することとなり、正使竹内保徳・副使松平康直・目付京極高朗以下総員36名が選ばれ、翌文久2年元旦英国軍艦オージンに乗船して長崎を出港した。日高圭三郎は再び随員となり、この時は勘定を命ぜられている。 文久3年3月には欧行の労を賞されて、遣米使節随員として帰国した時授けられた5人扶持が加増され、十人扶持となった。

慶応2年(1866年)2月鉄砲製造所奉行を命ぜられ、目見以上となり、翌3年6月砲兵指図役頭取を命ぜられ、器械製造所の用務取扱いとなり、同年8月砲兵頭並介を命ぜられた。明治元年(1868年)4月10日には砲兵頭並に進んだが、江戸開城の前日のことであり、6月には「御人減ニ付御役御免勤仕並寄合」となり、「陸軍御聞取扱」を命ぜられている。更に同年10月には陸軍生育方取締を命ぜられ、翌月には駿府に移っている。翌明治2年9月陸軍生育方の廃止に伴って免職、同月田中勤番組之頭支配世話役頭取となった。明治5年(1872年)4月新政府に出仕し、工部省に勤務、ついで同7年11月大蔵省記録寮勤務となり、同24年3月に至って非職となった。その後長男日高偉太郎と共に住み、偉太郎の勤務地の移動につれて転住し、大正8年(1919年)4月7日東京新宿の次男日高胖宅に於いて老衰の為86歳で、その生涯を終った。

(万延元年遣米使節史料収集第2巻より)