村山伯元淳(当時32歳)- プロファイル

村上伯元は塩田順庵の第二子として天保3年(1832年)に生まれ、後奥御外科村山自伯法眼の養子となった。名は淳、または徳淳、字は大僕、拙軒と号した。

武鑑によると、養父自伯の屋敷は本郷弓町にあり、伯元は養父と共に住んでいた。伯元は遣米使節に随従した功によって、万延元年(1860年)12月金二枚・時服二を賜り、年々手当として扶持五人扶持を下された。

翌年文久元年(1861年)の武鑑によると、伯元は養父と共に御奥外科に名を連ね、見習となっている。彼の御奥外科見習としての役はその後も続き、明治元年(1864年)まで武鑑上にその名が見える。幕府の瓦解するまでこの役にあった。維新後、伯元は一時医学館に職を奉じたが、しばらくして退職して、爾来医学の道から遠ざかっていた。彼の医学が漢方医であったため、時勢はすでに医学所を中心とする西洋医学が重要視される気運にあったから、おのずから時勢の進展にはついていけなかったのであろう。彼は編纂事業に活路を見出していった。文部・大蔵・内務省各省のために史を偏し、博物局では黒川真瀬等と「工芸史料」等を偏し、 解題を作って「博物館書目解題略」と名付けた。明治26年(1893年)3月13日、62歳をもって歿した。

村山伯元が書き残した自筆日誌「奉仕日録」原本の発見

海軍軍医学校の図書館に所蔵されていいた村山伯元著「奉仕日録」の原本は、戦後国立第二病院(現東京医療センター)に同施設が移管された後も他の医学専門書と共にそのまま保管されていた事実が今般解明された。(平成27年10月)

現在、社会福祉法人東京有隣会有燐病院長の鈴木紘一氏が、元東京医療センター副院長当時この「奉仕日録」 にご本人が興味を持たれ、幸いにも現在東京医療センターの病院長室の書棚に保管されている。「奉仕日録」の復刻版(2冊)は国会図書館が所蔵しているが、これらに押印されている角印「海軍軍醫學校圖書印」は朱(赤)色ではなく、いずれも墨(黒)色である。一方では原本には、朱色の角印が押印されている。このことから、「奉仕日録」の自筆原本であることが確証された。

(東京有隣会有燐病院長の鈴木紘一氏から「奉仕日録」の解読・注訳を依頼された古文書研究家の友澤弘弌氏から「万延元年遣米使節子孫の会」のホームページの「お問い合わせ」に村上伯元に関するお尋ねメールがあったことから上記事実が判明された。)

村山伯元の裔孫判明

友澤弘弌氏によるその後の調査にて村山伯元の裔孫につき下記の通り判明した。村山伯元のご子孫の村山久氏の調べでは、伯元の父親の六代自伯には五人の子女があった。男子はいずれも父親の自伯より先に死去し(某ー早世・天保二年・一八三一年)・徳顕(伯温)―安政二年・一八五五年・某―天保九年・一八三八年死去)

女子が二人いて、その一人に徳淳(伯元・拙軒)が婿養子に入った。徳淳は同じ幕府の医官で、「海防彝議」を編纂した、塩田順庵の第二子である。伯元は七代目となる。

二人の間には子供が一人いたが(男女不明)早世し、また妻も文久元年(一八六一年)に死去する。其の後、徳淳は後妻・志希を娶る。志希との間に二人の男子と一女があった。女子は諌山氏に嫁いだが、二人の男子は(成一と駿三)は父徳淳の死後(明治二十六年・一八九三年)、明治四十一年・一九〇八年七月一七日同じ日に亡くなる。(事故か何かであろうとの事)村山拙軒(伯元)の後妻志希子とその二人の子の墓は甲府の長久院にあったが、村山久氏が村山家累代の墓をすべて、新宿榎木町の濟松寺に移し、自らも村山家の墓石を建立した。

六代目自伯のもう一人の娘・きう(安政四年・一八五七年~大正二年・一九一三年)が、真木氏(幹之助・嘉永六年・一八五三年)に嫁ぎ三人の男子を儲ける。その第二子・実(明治二八年~昭和四十五年・一八九五年~一九七〇年))氏が村山家の養子となる。此の方が現当主の村山久氏(大正一五年・七月以前・一九二六年)の父君である。久氏には、奥様、ご子息彰氏そしてそのお子様(久氏の孫)も御健在であるとの事である。

奉仕日録の表紙
奉仕日録の表紙
海軍軍医学校図書印が押印されたページ
海軍軍医学校図書印が押印されたページ
新宿榎木町の濟松寺
新宿榎木町の濟松寺

 
(万延元年遣米使節史料集成第二巻及び友澤弘弌氏の調査報告書より)長野和郎