川崎道民(当時30歳)- プロファイル

川崎道民
川崎道民

佐賀藩医松隈甫庵の四男に生まれ、須古(現杵島郡白石町)鍋島安房ノ臣、侍医川崎道明の養子となる。兄は好生館初代院長の松隈元南。

万延元年(1860年)及び文久二年(1862年)幕命により遣米、遣欧使節団の御雇医師として随行し、海外視察。 その折に写真術を習得し帰国後藩主をはじめ数々撮影。佐賀に於ける写真術の祖である。

合わせて新聞の必要性を知り佐賀県初の新聞「佐賀県新聞」を明治五年に発刊するも不遇に終わるが地域での啓蒙活動に尽力した。日本に於けるジャーナリストの先駆者である。 又、福沢諭吉や大隈重信など幅広い人脈との交誼も厚かった。

明治十四年(1881年)死去。墓所は東京麻布・賢崇寺。

経歴(佐賀医学史会 貞松和余氏の「川崎道民の紹介資料」より)

1.はじめに

佐賀の地にて偉大なる先祖を知る。医者からジャーナリズムの世界へ・・
熱き心の我が祖の足跡をたどる。

2.プロフィール

天保2年 辛卯(1831年)-明治14年 辛巳(1881年)12月20日 51歳 没

佐賀蓮池藩医 松隈甫庵(内科・眼科 片田江住)の4男に生まれ、杵島郡須古 鍋島安房守ノ臣 須古宮内組 医師、川崎道明の養子となる。
兄は佐賀藩候侍医で漢方医術の大家、松隈元南(好生館初代院長)
次女 吉村ヨシ(明治4年12月17日生まれ)は明治41年小倉にて勝山女学館を創立し良妻賢母の育成に尽力。
(大正9年6月には父道民の遺志を継ぎ欧米視察旅を志す)

万延元年(1860年)及び文久2年(1862年)に幕府の遣米、遣欧使節団に随行し海外視察。その折に新聞、写真術を習得し地域での啓蒙活動に尽力した。写真術の元祖であり佐賀県初の新聞<佐賀県新聞>を発刊した。

3.医者

  • 遣米使節(1860年)
    佐賀藩校、弘道館を経て領主、鍋島安房 藩主、鍋島直正の奨励により長崎にて蘭医学を三年間研究。その後 大槻磐渓(儒学者・西洋砲術家)の家塾芝蘭堂で更に学び佐賀藩医となる。幕命により万延元年(1860)の遣米使節に御雇医師として随行。これは大槻磐渓の推挙があったと思われ、磐渓門徒であった道民との親密な関係がうかがえる。
    佐賀藩からの海外視察の特命もあり万延元年正月 幕府遣米使節団77名の3百余日、アメリカ人と日本人の異文化初体験の中からユニークな道民の行動を記す。
    1. ニューヨークブレディ写真館にて原板写真術を学び評される。
      <彼は頭が良く飲み込みが早いので専門家の指導を受ければアメリカを発つ前に専門家になっている事だろう>
    2. 頭蓋骨を骨相学的に骨相学者のファウラー氏に調べてもらう。
      <日本人の頭の大きさは中以下であるが、よくバランスがとれており知覚及び反射的能力に優れている事を示しているとの見解>
    3. 気球見物での「ザ・フィラデルフィア・インクワイアラ紙」より
      <聡明そうな顔つきをした医師たちは格別礼儀正しく、そのうちの一人は剃ったばかりの頭をしており、その頭は石ころよりつるつるしていて、まるでガラス瓶のように光っており、どちらが顔か頭か分からない。その頭でナイフを研いでみたい気持ちに駆られた>
    4. アメリカ政府よりの土産
      物理学書、測量書、香水、牛乳入れ、外科道具、銀、銅製メダル
    万延元年9月27日神奈川着。佐賀からの随行員は暫く江戸櫻田邸に宿泊。視察報告の(航米実記)は東京国立博物館に残されている。
  • 遣欧使節(1862年)
    文久2年(1861年)幕府は欧州への使節団派遣を決定し、御雇医師として前年遣米使節に随行した佐賀藩医の川崎道民を起用。
    出発前(12月22日)鍋島閑叟公に拝謁し、公より情報収集の特命を帯びる。
    1. フランス新聞ル・タン紙より
      <4月20日 植物園見学 5月8日 ロンドンで博覧会見学>
    2. 5月17日 ロンドン・バーク市のホテル ド・ベルヴューの記録に福沢諭吉(中津藩)、松木弘安(薩摩藩)他7名と同ホテル21番22号室に同宿
    3. 幕府特権大使とフランス、イギリス、オランダ、ロシアなどで行われた会談に同行す
    4. ベルリンにて竹内下野守の二日酔いをベルリン医師に診断さす
    5. 文久2年8月30日 帰路パリのホテルにて福沢諭吉他4人と同宿し、フランス人との交流の書翰あり
    6. 文久2年12月10日 横浜着
    約1年にわたる19世紀ヨーロッパ文化の実見。先進6ヶ国との外交交渉であった。
遣欧使節(1862年)随員 右から三人目が川崎道民
遣欧使節(1862年)随員 右から三人目が川崎道民

4.写真・新聞

二回の洋行に於いて西洋技術(写真・新聞)の重要性を知り、佐賀にて研究。
米国ブレンディ写真館より写真機を入手し、帰朝後、鍋島直大(直正息子、藩主)を撮影。
文久元年(1861年)5月15日 大槻磐渓(61歳)、大槻修二(17歳)を撮影(ガラス板写真)

鍋島直正公(46歳)江戸溜池邸にて川崎道民 拝撮
鍋島直正公(46歳)江戸溜池邸にて川崎道民 拝撮

ヨーロッパでは、日本視察団の行動が新聞にて迅速に伝えられ、これまで夢想だにしなかった事を眼前にし、新聞の公益を認め行動を共にしていた福沢諭吉や福地源一郎等と共に、帰朝後は互いに相提携して必ず我国に伝えんと期する。
明治5年(1872年)佐賀城下柳町に「佐賀県新聞」を発行。(明治行政資料の中に明治5年7月24日付の川崎道民、新聞活版所の開業願書が残っている)
日本最初の新聞は明治3年横浜で発行された横浜毎日新聞であり、道民の佐賀県新聞はその2年後のことである。発行部数・価格などうまくいかず2ヶ月後で廃刊になったが、その後も出版活動を続け、明治7年に活版(文字兼機械)購入を願い出ている。その折の借金願届などから資金繰りに困窮していたことがうかがえる。
道民の出した新聞は今の物とは違い、記事の内容は政府や県の仕事を県民に伝えるのが仕事であった。しかし当時は肥前の人々の認識も薄く面目と情熱を傾け、諸々の困難に遭遇しながら邁進するも新聞事業は失敗に終わった。

※新聞発行では何かと悪戦苦闘であったが前後して明治5年6、7月には(芝居興行願)を出し、材木町にて興行する。
※明治6年11月 学資献金寄付<金五拾圓 明治6年12月13日 単語篇出版願を出し、学校教育の重要性を伝える。
※「野中家文書」に “川崎氏発明之平版活版の仕組” と題した資料が残っている。活版機の発明も試みたもようである。

5.最後に

日本は宛ら幕末の動乱期にアメリカとヨーロッパ諸国を巡り、外国の文明を実見した道民の驚愕と感動はいかばかりであったろうか・・
行く先々での行動を迅速に伝える 新聞 又、その姿を撮影し残す 写真。これらを、地域での啓蒙活動の軸として全てをかけた道民の生涯。
時のひと勝海舟、福沢諭吉、大隈重信など幅広い人脈も興味深い。医者からジャーナリストへと好奇心強くユニーク豪快!
悔い無い人生であったろう・・子孫として深く想いにはせるところである。

川崎道民(当時30歳)- 永代墓地

  • 所在地
    賢崇寺(けんそうじ)
    東京都港区元麻布一丁目2-12
    南北線麻布十番駅4番出口から徒歩5分
  • 東京の中の佐賀 鍋島藩菩提寺「賢崇寺」
    佐賀藩初代藩主鍋島勝茂公の嫡子直忠の早世を悼み、その菩提を弔う為に建立された。
    東京港区麻布十番の高台にあり、都会の喧噪を忘れる静かな佇まいの中、初代藩主勝茂公はじめとする歴代藩主の五輪塔と佐賀の有名人たち、 陸運の三太郎と言われた宇都宮太郎陸軍大将、リコー三愛グループ創設者 市村清、国史家 久米桂一郎、写真美術の祖 川崎道民など佐賀ゆかりの墓所である。
    昭和20年の東京大空襲にて消失したが、鍋島家や檀家の浄財によって先代第29世 藤田俊訓大和尚(杵島郡大町町出身)のもと、昭和47年に再建。
左:川崎道民(鐵翁道眠居士)、右:父、川崎道明(亀堂元翁居士)
左:川崎道民(鐵翁道眠居士)、右:父、川崎道明(亀堂元翁居士)