加藤素毛雅英(当時35歳)- プロファイル

加藤素毛(加藤素毛記念館より)
加藤素毛
(加藤素毛記念館より)

経歴

文政8年(1825年)10月17日、加藤素毛は加藤三郎右衛門雅文の次男として、飛騨国益田郡下原村に生まれた。素毛は名を雅英と言い、通称を初め藤平と称し、後十郎と改めた。別に周海・米行子・霊芝庵・君林舎の号がある。生家の加藤氏は、下原村他17ヵ村の大庄屋で、苗字帯刀を許され、飛騨の五大老の一つに数えられた旧家であった。父の雅文は加藤家の十代で、俳名を素牧と称し、十一代を継いだ長兄の文樹も俳名を素石と言い、一家皆俳句を詠んだ。こうした環境に育ったので、素毛もまた俳句をよくした。
嘉永5年(1852年)2月、素毛は郷里をあとに筑柴めぐりの旅に出て、再び帰ったのは安政元年(1854年)の正月であった。
安政6年(1859年)35才、山岡鉄舟を頼って江戸へ。鉄舟は千葉周作に学び、無刀流を創し春風館道場を開く。幕府の浪士組取締役(後勝海舟・西郷隆盛会談の陰の立役者)。そこで幕府御用達伊勢屋の手代となった素毛は、遣米使節団の御賄方の一人として一行に加わることができた。
嘉永年中(1848年-1853年)「岐阜県益田郡誌」によれば、素毛は高山で、飛騨群代小野朝右衛門高福の公用人となり、後に江戸に移り官遊した、とある。高福の長男を鉄太郎と言い、これが後の山岡鉄舟である。素毛は弟の武精や鉄舟と共に、高福に漢学を学んだ。帰朝後の素毛は諸所に招かれ、珍しい土産品を示しながら「快爽にして流水のことし」(二夜語)と言われる弁舌を以って、お面白おかしく異国の模様を語り歩いた。
文久元年(1861年)8月、飛騨の高山から美濃の上有地を経て名古屋に現れ、ここでの洋行談が水野正信の「二夜語」となって出筆された。
明治12年(1879年)5月12日、素毛は55歳で病没した。遺骨は下原村の玉龍寺の加藤家の墓に葬られた。

(万延元年遣米使節史料集成第三巻及び「金山町商工会」HPより)