佐藤恒蔵秀長(豊後杵築藩士)(当時37歳)- プロファイル

経歴

文政7年(1824年) 誕生。
安政2年(1855年) オランダが蒸気軍艦を幕府に献上し、操術訓練のため「海軍伝習所」を長崎に設置した。勝海舟・榎本武揚や諸藩の伝習生も参加した。佐藤恒蔵秀長も杵築藩士として参加したと推測される。参加したとすれば33歳である。
安政4年(1857年) 江戸築地講武所内に「軍艦操練所」が設立された。佐藤恒蔵が参加したとすれば34歳。神奈川台場は、松山藩が六万両余の巨費を費やして独力で築城したもので、設計は勝海舟、縄張りは佐藤政養(与之介)、佐藤恒蔵が担当した。工事は安政4年(1859年)6月から一年余りの突貫工事で行われ、万延元年(1860年)に完成した。神奈川砲台建設は海舟のもとに設計依頼があったが、実際には、適任者は門人の佐藤恒蔵であると海舟が推薦し、恒蔵は心血を注いで設計図を書いたという。
万延元年(1860年) 佐藤恒蔵(37歳)は、勝海舟の推薦にて万延元年遣米使節に賄方として参加した。しかし、賄方は表向きであり、実際には米国の海軍造船所、砦・砲台、武器弾薬の実情を視察して見聞を広めることが目的であったようだ。 恒蔵は、「米国日記」をつけており、見たままを素直に記録して、科学文明の進歩を日本との比較の中に書き、詳しく描写している。
文久元年(1862年) 文久元年(1862年)12月23日~文久2年(1863年)12月10日、遣欧使節団に船中賄方並小役として参加。賄方兼小役として諸藩の士6名が使節一行に加わり随行しているのは、特別な志と西洋文化に接して見聞を広めようといった向学の念からでたものであろう。しかし、かれらは(幕府に対し)藩士の身分で公然と随行することは出来なかったから、各自密かにつてを求め、武士の栄位や誇りを捨て、賤夫に身を落としてまで目的を遂げようとした。 帰国後は、杵築藩に帰って藩兵について教練の仕事についた。杵築学校沿革資料によれば、勝安房先生の門下たりし佐藤恒蔵・浅井新太郎・浅野甫を召喚し、佐藤・浅井を教師とし、浅野を助教とし、一藩の兵式を英式に改め、大砲・小銃適当の程度に応じ購入し、・・・とあり、恒蔵は勝安房(海舟)の門下生であり、英式訓練を行っている。杵築藩では鉄砲(小銃)の打ち方については、士分の者は家老や小物を問わず全員に射撃訓練を命じ、特に老齢の者には免除した。西洋における鉄砲の重要さを恒蔵が進言した。
文久2年(1862年) 12月16日、中小性被召抱、御擬並之通被仰付。
元治元年(1864年) 4月6日、御在所勝手被仰付。
慶応3年(1867年) 11月朔日公儀御用向相勤候付、十人扶持給人同格被仰付。明治維新後は、杵築藩校の学習館で兵式訓練の教師を務めた。
明治38年(1905年) 没。

(杵築史談会発行「米国日記」第二版 及び宮永孝著「幕末遣欧使節団」より編集)